福田村事件/関東大震災後にあった本当の事件、政府の陰謀説?

映画鑑賞

1923年9月1日11時58分、関東大震災は起こりました。

死者行方不明者10万5000人超え、

そんな中朝鮮人が暴動を起こしているとか

朝鮮人が井戸に毒を入れているとデマが流れたそうです。

1936(昭和11年)生まれの亡き父から聞いていた話と一緒でした。

当時父の家族は墨田区に住んでいました。

殺されはしなかったかもしれませんが、

朝鮮人は朝鮮人というだけで、ひどい目にあっていたことは事実です。

映画の予告編より先に当時の貴重な映像がありましたので、ご覧ください。

戦後ではなく地震後ということが興味深いです。

終戦は1945年だから、この後も戦争はあるわけです。

予告編

戦争を引きずる日本の社会はどこもこのような感じだったのかもしれません。

あらすじ

福田村には香川県から薬売りの行商人が団体で来ていました。

飴売りの朝鮮人がいたことから、福田村には朝鮮人が住んでいたことがわかります。

関東大震災後、

朝鮮人が暴動を起こして、井戸に毒を入れたというデマが流れます。

福田村では元軍人が中心になり、自警団を結成します。

朝鮮人は殺していきました。(何もしていないのに、あぶり出すように殺していきました。)

香川県から来ていた通行手形を持っていた行商人の一行も朝鮮人ではないかと疑われてしまいます。

通行手形が本物かどうかを確認する間も待てず、

9人を竹槍や日本刀で殺してしまいました。

本当にあった事件ですし、

当時の

福田村の警察官は生き残った行商人の子どもを自宅に泊めてあげたそうです。

感想

この映画によると

政府が意図的に朝鮮人を悪者にしようとしていたのではないかと捉えることができます。

新聞記者の一部は本当のことを伝えようと努力していましたが、

多分上司から止められ、出来なかった。

日本に住んでいても決して日本人とは認められない朝鮮人の人。

(おかしなことを言っているという自覚はあります。)

戦争になれば、日本を背負って一緒に戦ってくれていました。

でも日本人ではないから、迫害されていました。

多分、日本人は朝鮮人が怖かったのです。

いつか仕返しされるのではないかと。

それは関東大震災後だけでなく、ずっと続いていたのです。

亡き父が子どもの頃、

朝鮮人の子どもに言われたそうです。

「ちょうせん、ちょうせん言うな。同じ飯食って何が違う。」

亡き父は朝鮮人独得のイントネーションで上の言葉を言ってくれました。

亡き父は戦争を憎んでいました。

戦争を知らない人は

戦争映画等を平気で観ていられますが、

父は戦争の事を思い出したくないと言って、観ませんでした。

そういうものは嫌いでした。

ただ、

時折、思い出したように、話してくれました。

父は東京大空襲があった時、墨田区に住んでいました。

防空壕から出ると、全部焼けてしまっていたそうです。

そしてしばらくすると鉄道が再開されたと話してくれました。

墨田区から台東区の上野の駅が見えたそうです。

高い建物はないし、平地だから見えたのでしょうね。

父の母、つまり私のおばあちゃんは全部燃えてびっくりしたそうで、

それから疎開を決意したそうです。

(江戸っ子のおばあちゃんは田舎なんかに行きたくない!と言っていたそうです。)

上野まではもちろん徒歩です。

8歳くらいだった父は大変だったでしょうね。

福田村事件の犯人らは捕まるものの、

大正天皇の崩御があり、恩赦でたった数年で刑務所を出てきたそうです。

殺された人の無念ははかりしれません。

現在もマスコミ報道による印象操作はひどいと思っています。

マスコミというか政府が流しているのかも?

あまりテレビは見ないようにしています。

お読みいただきありがとうございました。

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