祖母 夏
初めて父の泣いている姿を見ました。
おばあちゃんが死んでしまいました。
初めて経験した現実の死です。
千葉へ海水浴に行っていた私におばあちゃんが死んだから帰って来なさいと連絡がありました。
ひとりで電車に乗り帰ります。
当時おばあちゃんは父の兄、伯父さんご夫婦と同居していました。
その伯父さんちというのが父親が建てた家で、紆余曲折あり伯父夫婦が住んでいたのです。
二十歳の自分は泣いてばかりいました。
父親に「泣いてばかりいてうるさい。」と叱られます。
泣くしかすることがありません。
生まれてから15歳まで一緒に住んでいたのに、引越した先におばあちゃんがついてきてくれませんでした。
おばあちゃんがいつか死ぬなんて考えることができない年齢でした。
入院したとき、一度お見舞いに行きましたが、まさか死ぬなんて思いませんでした。
おばあちゃんが死んだ日、祖母の子どもたち(おじさんおばさん)が集まって飲みだしました。
夕方になりました。
少し場もおさまって
隣が父親が経営していた工場でそこの休憩所に行くと、横になっている父を見つけました。
そおっといくと父親は声を押し殺して泣いていました。
しばらくそんな父を見ていました。
いずれ父にそのことを話そうとしましたが、とうとう話すことはできませんでした。
母 夏
お母さんが死んだ日はお父さんの誕生日でした。
私が結婚したその年に乳がんが判明し、それから17年間がんと戦い死にました。
癌という病気は人間を変えます。
母は前向きにがんと取り組み戦うことを選びます。余命3年が、発症後17年まで寿命を伸ばします。
治療内容は手術・抗がん剤投与・放射線治療そして民間療法です。
当時の抗がん剤治療は壮絶でした。
6人部屋で治療を受けていましたが、抗がん剤治療の影響で脱毛・嘔吐が激しかったです。しかも新薬の治験抗がん剤をする方もいらっしゃって、「あの人新薬の抗がん剤なのよ。」って聞いていたら、まもなく亡くなったりしてました。部屋の空気は重く、嘔吐するためのバケツが置いてありました。隣で嘔吐していても慣れっこになっているそんな部屋でした。
母はコミュニケーション能力が高く、相部屋の方々にお茶などを入れる人でしたので、人気ものでした。
地方から入院されている方も多く、退院されると地方の名産品を送ってくださる方、商売をされている方は自分のお店のものを送ってくださる方もいらっしゃいました。
母はがん友と名付けていました。
退院してもいつまでも友達です。
その頃は固定電話での通話が主体です。
口コミや雑誌での情報で民間治療と言われるものを試しあっていました。
母は最初の手術で左胸をえぐるようにとり、すでにリンパ節や骨まで転移していました。
左胸の手術のあとから、なんだろうふさぎきれずに穴が開いていて、体液みたいのが、ずっと出ていました。
最初は乳房の再建を考えていましたが、そんな穴が開いた状態で変な液みたいのも出ているし、あきらめてしまったようです。
だいぶ後になってそれが花咲き乳がんと言われるものだとわかります。母はそれを知らずに自分だけこんなになってしまっていると悩んでかわいそうでした。
穴がふさがってからは温泉にも行くようになりました。50代でしたので今考えれば胸中いろいろあったかと思いますが、いつも前向きに明るくしていました。
ごっそり左胸と左脇のがんをとったので、左手も不自由でした。
途中、母の姉が死にます。入院中でしたので、母の代わりに私がお葬式に行きました。
少したって、母の妹が死にます。胃がんでした。一緒にお葬式に行きました。
母の妹の方があとから発症するのですが、内臓がんで食べるものを受け付けなくなり、早く弱っていきました。
自分の具合が良いときは妹のお見舞いによく行っていました。
がん治療の最中でも調子の良いときはたくさんあります。
ショッピングしたり、お芝居見たり、旅行したりしました。趣味で社交ダンスをしていたので、パーティーで踊って発表もしていました。
ある日、背中から大出血しました。大きくなったガンが突き破ったのです。
真っ赤になったお布団たち。
でもベッドがいっぱいで入院できず、一度帰されそうになります。
やっとベッドが決まり病室に行くと、疲れ切って寝ている父と死んでいるかのような母。
母は「ごめんね。忙しいのに。」
と真っ青な顔で私を労ってくれました。
それから10ヵ月、入退院を繰り返してとうとう死んでしまいます。
背中は牛乳瓶がすっぽり入るくらいの穴がずっと開いていましたが、徐々にふさがっていきます。
「すごいよ。綺麗に治っていくね。ガンが大出血で全部爆発したから大丈夫だよ。治るよ。」
「そうかねえ」
花咲き乳がんの時は、生理用のナプキンを患部にあてましたが、背中は赤ちゃん用のオムツをあてました。
片方の肺しか機能せず、それもがんにつぶされていきます。
もっと生きたかったと思います。
父 初夏
大手町から千代田線に乗り換えて北千住駅で降りました。
その時、ポケットに入れていた電子マネースイカを落としてしまいました。
北千住駅で気づいた後、すぐに改札口で駅員さんにそれを伝えます。
今下車した電車にあるかもしれないので、すぐ調べますのでと駅の拾得物取扱い所まで行きます。
駅員さんはお時間があれば、お待ちいただけますかとおっしゃるので、待つことを選びます。
実は
そんなことをしている場合ではないのです。
早朝、父が危ないからと病院から連絡があり、向かっていたところでした。
普通であれば、スイカなどどうでもいいから父のところに向かうはずです。
もう死んでいる気がします。
病院に急ぐことができませんでした。
スイカは見つかり、ゆっくりゆっくり病院に向かいます。
ゆっくりゆっくり一歩一歩進みます。
父が大好きでした。
俺も年だよ。
競艇行くのに、自転車をこいでは休みこいでは休みじゃないと行けないよ。
それは病気のサインでしたのに、私は見落としておりました。
ギャンブル好きな父は年金暮らしで、年金支給日になるとごっそりおろしてすぐ使っちゃう人でした。
競馬・競艇・麻雀・パチンコ・スロット・正月には花札でおいちょかぶ、楽しそうでした。
約2年後、弟が呼吸の仕方がおかしいからと病院に連れていったら、間質性肺炎でした。
早く診断がついていたとしても治す手だてがないということでしたが、もっと早く知っていれば、もっといろいろしてあげられたなと思います。
間質性肺炎とは。
血液中の二酸化炭素と肺に送られてきた酸素を交換する肺胞の壁を間質といいます。
間質が統合した組織に炎症がおこるのが間質性肺炎ということです。
だんだんと間質で酸素と二酸化炭素の入れ替えが困難になっていき、呼吸困難になると理解しました。
症状は咳・息切れ・呼吸困難・微熱・全身の倦怠感。
最後の方はすごく酸素濃度を濃くしても息が苦しそうです。間質という場所が二酸化炭素でいっぱいになってしまい、酸素に交換できなくなってしまいます。
苦しい、苦しいという時もありました。そんな日はかわいそうで泣いてしまいます。
主治医の先生とお話するのは弟夫婦におまかせしていたので、彼らの説明を聞いても今一つ理解できませんでした。
弟はよくやってくれたと思います。
もうすぐ一周忌です。
毎日思い出さない日はありません。
東京オリンピックを見せてあげたかったです。
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